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フロイトの「空想」


認知行動療法的には自分の気持ちをカウンセラーや心理士に話すことは神経症や回避性P.D. にとって効果的だと言われています。

まず自分は辛いのだということを自覚する、自分の置かれている環境を辛いという言葉に落とし込むことで不安や恐怖の軽減を図ります。

 

言葉とは、精神分析において大変なものとして扱われます。

 

他人とコミュニケーションする為に言葉は必須ですね。
「こんな言葉で、この悲しみが言い表せるもんか」と殻に閉じこもっているようでは、いつまでも他人と分かり合うことは出来ません。

私も自分を表すための言葉を探す為に本を読んだりネットを彷徨ったり色々してきましたが、結果的に自分が求めているのは言葉ではなく、自分の中にしか存在しない空想なんだということに行き着いてそれっきりでした。


今回は(回避性P.D. の話題から少し逸脱してしまいますが)、フロイト先生の「空想」について語っていこうと思います。


(※著者が素人の為、情報の新旧、真偽につきましては眉間に唾を付けてから閲覧することをおすすめします。特に独自解釈が過ぎる記事になると思われます) 

 

フロイトの著したものの中に「子供が叩かれる――性倒錯の発生の知識への寄与」という小論文があります。
神経症患者における性倒錯の変遷を書いているものなので回避性P.D. とは直接的な関係はありません。そもそもこの論文自体が仮説の範疇であり、現代ではフロイト自身の理論を権威づける為に書かれたものだとしてあまりいい評価はされていません。

 

内容としてはヒステリーや強迫神経症を訴える人々が、幼少時に「子供が叩かれる空想」をしていると告白する。その患者の数は意外なほど多く、そういった空想はエディプスコンプレックスから端を発する性倒錯が表出したものであると主張する理論がつらつらと書かれています。

 

エディプスコンプレックスとは簡単に言うと「(神経症における)罪悪の根源としての近親愛」のことです。

 

エディプスコンプレックスは、子供が親に愛されたいと願う単なる願望として理解されがちですが、本当は「“親に愛されているという幻想”の崩壊」と解釈するべきだと思うのです。幻想を確信と言い換えても構いません。

 

親から満足に愛されていないと知った子供は親を恨みますが、あくまでもそれは無意識での話です。どうにかそれを自覚しないようにします。

 

そして子供はいつしか「アンクル・トムの小屋」などを読み、物語に負けじと空想を発展させていきます。叩かれる、という行為は愛されていることの反証です。
裏切られた事実を無意識に反復しているのか。
また、自分と同じく大人に裏切られた子供に対し、同情しているのか、嘲笑っているのか……性的満足を得ているのか。それは束の間の優越感か。

 

そしてその優越感さえも、子供が親から完全には愛されてはいないという事実の証明なのか。


空想という取り留めのない願望をアカデミックな理論に落とし込むのはさぞ骨が折れたことでしょう。フロイト先生のアプローチがもし精神分析ではなく小説であったなら、また現在の評価とは真逆になっていたかも知れません。


現代日本だと「リョナ」という言葉がありますね。
傷つければ傷つけるほど興奮するというこれまた倒錯的な嗜好です。ほぼグロと同義なので調べる際はご注意下さい。

 


もう少しラフな言い方だと「キュートアグレッション」でしょうか。
今流行りの「ちいかわ」とか、「君がもしお菓子だったなら君を食べちゃいたいです」と好きな子への手紙に書いた芥川龍之介とか。

 

何かと批判の多いフロイト先生ですが、言い換えればそれだけ世間に与えた影響というのが大きいのです。
ただし、こころというその特質上、あくまで個人の精神は神話上でしか語れないのが現状です。精神分析という神話の中でしかトラウマは語れないのです。これはラカンの「現実界」という概念に基づきます。


トラウマが言葉として昇華されるには、空想は不可欠だと思います。
トラウマという混沌とした世界から、空想という世界へ、それから他人と言葉という共同価値を介する象徴の世界へ。

 

人はそうして自分の傷を癒していくといいます。

 

これこそ理想的な行動認知療法の形なんだと思います。

 

次回はこの続きとしてラカン先生の「象徴」について書いていきたいと思います。