駅にて待つ。

自己理解の為のブログだよ。素人が何か言ってるだけだよ。

「努力できない」は甘え

私は小さい頃に親の転勤とともに引っ越しを経験してきたせいか、自分の中にリセット願望めいたものがあるような気がしています。人間関係を築いたところで、どうせ意味はないのだと。
人間関係に対する面倒くささは、裏を返せば半ば諦めによるものです。
かつて住んでいた場所で得るはずだった友人との時間は存在しない。
それが悲しい。
その鬱屈は、不登校だった当時、周囲の人に打ち明けられなかった私の本心です。母親は私が不登校である理由を学校でいじめられているからではないかとか、相当悩んでいたようですが当の私の問題は、全て自分の内部で起きていることが全てだったのです。


当時の転校先での私は散々なもので、以前住んでいた街恋しさに学校で泣いてしまったり、そのせいで教師から敬遠されたり扱いの困る子供であったに違いないです。
そこで丁度一年過ごして、また新しい土地へと引っ越しました。


なんやかんやあって今住んでいる土地には愛着がありますし、たまに遊ぶ友人もいい人ばかりです。
たまに仕事の話になり、正社員どころかアルバイトすらまともにやりたがらない私は友人からたびたび諭されています。私の性格は怠惰そのものなので当然ですね。
ですが、私はいまいち勤勉な自分をイメージ出来ません。


経験と理想が釣り合っていない典型的な完璧主義者で、些細な失敗も世界の終わりのように捉えてしまいます。

しかも、突然体調不良になる虚弱体質です。アレキシサイミア傾向というのか、平常時にストレスを自覚できずある時一気に暴発します。

努力する為にと将来のことを聞かれても、具体的な展望も何もありません。ただ書くことで生きていけたらと考える程度です。


そして、最も自覚的なのは今までの私は幻想の世界に生きていたということです。
「努力できない」自分に致命的に足りないのは情熱でも実のところ努力でもない。ラカン的「象徴」です。

前回の記事に通ずることですが、身近なものの中でラカンの「象徴」に近いのは研修アルバイトの隣にいる補佐役の人ではないかとふと思いました。

いつも体感している会計のテンポではないので心なしか気まずく感じますが(私だけかも)、それはアルバイトを店員としてよりもその人の人間性を意識してしまうからではないかと思うのです。

そして、隣にいる補佐の立ち回り(指導)にも人間的な生々しさを感じますが、これを介することで店員らしい対応というのが生み出されるはずです。

上記の例えが分かりづらければ教習所の指導員でも構いません。
教習所では指導員の指導を受けることで、ドライバーはドライバーとしての基本的な振る舞いを叩き込まれますね。

ドライバーとはこういうもの、店員とはこういうもの、
こういった共同意識を持つことによって私達は他者と共同することができるのです。

これは幼児の頃抱いていた幻想を捨て(想像界)、自分の不快を取り除いてくれる母と自分との二者関係の間に、社会規範としての第三者が介入する世界に進出しなければいけない(象徴界)といったラカンの言動とも一致します。


社会不適合者の人がたまに口にする「他人にあるはずのフィルターが自分にはない」というのは、補佐もなしにフルタイムで就労させられるようなものなのではないかと思います。


……それって社会不適合者の責任なの?

 


とはいえ、自分のアイデンティティの上で胡坐をかいて自分の欲求を自分で解消しないのは流石に甘えだと思います。

P.D. を、成長しない言い訳に使わないよう精進したいところです。


病床とは案外、常識という個人の幻想の中にあるのかも知れません。
私が幼い頃の本心を告白する前に、癌により母は亡くなりました。

子供の頃の幻想とはまさに「生きる意味」なのです。
家族との繋がりとはその最たるものだと思っています。
それを安易に壊したくないから、壊れる一因になりかねない悩みを言いたくないのは必定です。
その後に「ちゃんと言っておけばよかった」と後悔するのもまた必定。


自分が見ている「努力しなければいけない現実」というのは、実は自分だけが見ている「幻想」なのではないかと、成人した今にして思う訳で、だからこそ改めて思うのです。

 

努力できないのではなく、そもそも努力する意味が分からないのだ、と。