駅にて待つ。

自己理解の為のブログだよ。素人が何か言ってるだけだよ。

たまに思い出して枕バンバン叩くやつ

辛いよね……。

 

前回の続きというか、自分の中では繋がってるつもりなんだけど傍目にはあんまり関係ないかもしれない。備忘録的な側面の強いブログなので、これを書いたら次はロマン主義文学とかだらだら語るかもしれないです。にわかだけど。

 

行動遺伝学の領域では、遺伝と環境によって人間のストレス耐性が決まると考えられています。ざっくり言えば、人間の遺伝子には統合失調症のような精神病になりやすい遺伝子というのが存在し、さらに世代間伝達という親が抱えている抑うつ精神疾患に子どもも悩まされるという循環が発生しているというのです。

 

ストレスに対し体制がなく、対処するのが困難な遺伝的な脆弱性ーストレスモデル。

また、それをもとにして提唱された差次感受性仮説。

 

親のトラウマが、子の無意識に影響を与える世代間伝達。

 

うつや強迫性障害のような精神疾患だけでなく、統合失調症なども発症しやすい遺伝的な脆弱性が存在すると言われています。ただ、こちらの場合は子供が発症しているからといって親も発症しているケースはほとんどないそう(双子でも発症するケースは50%程度)で、環境的要因が強いのかもしれません。

 

www.mental-navi.net

 

不登校児の特集を組んだニュース番組のコメント欄などを見れば、世代間伝達は理解しやすいかもしれません。なぜならこれは単なる親子問題ではなく、三世代に渡って起こり得る問題だからです。まさしく川の流れの様に連綿とよいものも悪いものもダイナミックに伝達していくネットワークのごとく。

理由は分からないが、外れてはならないもの。外れたら烙印を押されてしまうもの。

その分からない部分に親の世代が抱えているトラウマが関与しているのです。

 

葛藤が長く慢性的な場合、その子供は優柔不断な自我脆弱という状態にあります。

自分の中の葛藤が終わる前に、他者の(時として親の)感情を投げ入れられさらに混乱するとします。子供は心理的リアクタンスにより思考がまとまらず「宿題をしなければいけないのにテレビを見続ける」、「片づけをしなければいけないのに遊び続ける」などといった行動が目立つようになります。この場合、本人が「怠けている」と自覚しているか「苦しいのに止められない」と自覚しているかによって対応が変わってきます。

 

前者は言い方を変えたり工夫がいるかもしれません。

後者は強迫性障害認知行動療法的な対応が必要です。

 

問題は、子供が「分からない」場合です。

なぜ自分が泣いているのか分からない、なぜ自分が苦しいのか分からない。

悲しみに主語がない場合、その主語の持ち主は貴方ではなく他者なのかもしれません。

 

こういった世代間伝達は絶対的なものではありません。メンタライゼーションや心に余裕を持つことで「他者は自分とは別物で、他者の感情と自分の感情は別物」と自覚できるだけでだいぶ違うはずです。

 

適応障害抑うつの裏には、他者の声が紛れているかもしれません。

葛藤を適当に書き出してみて、あるいは声に出して録音するとかでもいいです。

それが自分の本心なのか、違うのなら本当はどうしたいのか、自分の声じゃないならそれは誰の声なのか。祖先のトラウマではないか。

 

うつや摂食障害は他の神経症よりも自責傾向が特徴です。

近親者による性的虐待を受けた女性は、自分の身体が性的魅力を持たないよう戒めとして飲食を拒否して摂食障害となる場合、治療するのはなかなか困難なのだそうです。

それだけ思考や価値観の内在化というのは個人にたいして莫大な影響力を持っているということですね。

 

( ..)φメモメモ

 

参考文献

山下洋「アタッチメントの精神医学 愛着障害と母子臨床」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前向きは未来向き

 

 

 

 

自傷行為としての「自己催眠」

「嫌いな人の動向が気になる」


「憎悪に取り憑かれ正常な判断が出来なくなる」


「憎悪しているのに不可解な情が湧いて離れられない」

 

 

これは、私が実際の人物へ向けていた感情です。

 

あまり生々しいので出来れば表に出すのは忍びないのですが今回の記事を書くにあたってやむを得ないな、という判断です。もしこの時点で気分を害された方は閲覧をやめてください(ていうか、これ以上見ないで!)。

 

夏なので自分語りしかしていません。

 

ちなみに、これはいつぞや書いた記事の「自我障害」と地続きの話題です。

 

 

phantomtan.hatenablog.com

 

 

エス超自我がぶつかりあっている状態(=葛藤)は人間にとって思考し続けることを意味する為、大変苦痛です。葛藤は、そもそも4種類に分けられます。

 

・接近ー接近型葛藤
好きなものと、好きなもののどちらかを選ばなければいけない

 

・回避ー回避型葛藤
苦手なものと、苦手なもののどちらかを選ばなければいけない

 

・接近ー回避型葛藤
一つの物事にプラスとマイナスの両面があるとき。それをするか、しないか

 

・二重接近ー回避型葛藤
上の派生版で二つ以上の物事に両面があるとき

 

 

 

より詳しくはこちらを↓

psycho-psycho.com

 


合理社会の現代で葛藤はあまり喜ばしくない代物かもしれませんが、悲しいかな人間とは自分のこういった「選択」を取り上げられたときに衝動的に反抗してしまう生き物でもあるのです。

 

心理学的に選択、もっと言えば自由を奪われた際の反抗を「心理的リアクタンス」といい、更にその反抗の理由を後付けするのが「認知的不協和」という影の存在です。

 

前者は俗に言うカリギュラ効果と深い関連があります。上記の赤字に釣られて今読んでいる方は今後注意した方がいいかもしれません。

 

後者は心の中に生じる小さな矛盾のことで自分の行動と実際の欲求にズレが生じて不快感を覚える状態を指します。

 

例えば上記の接近ー接近型葛藤があったとして誰かから「Aは選ばないでください」と言われた人が、その人の言うことに反抗してそのままAを取る、といった具合です。


極めつけに「なんでAを選んだんですか?」と聞かれて「いや、俺は初めからAを選んでいた」とか「これが一番好きだった」とか言おうものなら、もうその人は認知的不協和を無意識から追い出して自分を催眠にかけてしまっています。

 

まんま、以前の私です。

 

 

私の頭は「引っ越し」をきっかけとして家族への不信に溢れかえりました。


不登校の理由はまずこれでしょうが、両親は子供の内はどんな環境でもすぐ慣れるという思考の人達で、まさか私が引っ越しが原因で不登校になるなど全く予想できなかったでしょう。私もどうしてこの程度で朝泣きながら学校に行っているのか分からなくなっていきました。

 

人生三度目の引っ越しの際は苦い思い出しかない学校を離れられてよかった。そこでも仲の良い子は何人かいて中でも一番仲の良かった子と別れるのは辛かったけど仕方ないという思いもありました。

 

その後の新天地で、何度も言語化し難い体験をしました。

 

物を盗まれ、新品の傘を壊され、友人宅の掃除をさせられ(未だに意味が分からない)、何度も虚言癖に悩まされ幻滅させられました。


しかし私はその子に憎悪を抱くかたわら、本気で好ましいと思っていました。私がヘタクソな漫画を描けば面白いと言ってくれて、便乗して自分の漫画を描いて読ませてくれました。

 

何度も私から遊びに誘って外が暗くなるまで遊びました。家にいても両親は共働きなので家には誰もいません。一つ前に住んでいた土地では肌が真っ黒になるほど外で近所の友達と遊んでいましたが、件の子とは専らその子の家で遊ばせて貰いました。

 

その子の家族ともよく交流していました。ゲームを盗まれて大変な目に逢いましたがそれでも私は彼女を親友だと思っていました。普通ならあり得ない状況です。


それでも私は「自分の意志で」、「彼女が好きだから」、彼女といるんだと信じていました。現在の土地に越してからも彼女とはしばらく交流していました。

今は断絶状態です。

 

彼女に対するドロドロした感情は何なのかと今一度思案していた所、行き着いたのが上記の二つの概念でした。私は自らタブー化した「家族への不信」から逃れたくて、勉強も学校も放り投げて遊びに没頭していました。

 

自由意志のようでいて、実の所それは思考放棄です。自主性も、友情も、愛着もなく、むしろ彼女を登校拒否の理由にできた。私の家はずいぶんマトモに見えた。

家族構成がうちとそっくりだったから、尚更(彼女も私も末っ子)。

 

身体は学校を拒んで、脳みそはその理由を忘れた。
何にも解決しなかった。

 

続きは明日また書きます。

 

では_(._.)_

 

 

 

 

 

 

 

“存在しない”アイデンティティー

 

 

「今の私」は「理想(ほんとう)の私」ではない。
生きていれば誰しもが一度は考えたことのある苦悩。その最たるものこそ、「負のアイデンティティー」です。

 

突然ですが、幼い頃、その時、皆さんはどんな夢を持っていましたか?
仮面ライダー? プリキュア? ヘラクレスオオカブト
素敵な夢ですね。

 

しかし、我々はその夢が永久的に叶わないことを知っている筈です。
サンタなんていないし、夜に現れる鬼も、プリキュアも、現実には存在しないんです。どこか幼心でさえ、それを知っていた人もいるでしょう。

大半の人が、そうかもしれません。

さて、フィクションとは別に、私達は現実について知っていることがあります。

 

私はパパとママの間に生まれた子。両親は私に比類なく愛情を注いでくれる。

私は愛されている。この世界中でどんなに辛いことがあっても、家族がいるから大丈夫。

家族は、私を裏切らない。私も、家族を裏切らない。

 

漠然と信じているこれらの考えは、必ずしも真実ではありません。

 

幼少期の幻想、ラカンのいう「想像界」、自分の心の中にしかないものであるということです。
パーソナリティ障害に悩まされている人が仮に上記のように幻想を何らかの拍子に暴露され、「私は両親から愛されていない」、「裏切られた」、「見捨てられた」と印象に残る体験をしたときに「負のアイデンティティー」もとい、対象aが真に迫った現実として表れてくるのです。

 

事故や、災害などで腕や足をなくした人々に伴う幻肢痛という症状がありますが、まさにそのようにして「私は〇〇ではない」、「私は〇〇になれない」という思考が心身に強いストレスを与える場合があります。


それは現実には“初めから”存在しなかったのに、私の中に残り続け、皮肉なことにその事実は私を私たらしめるのです。

わざわざ負のアイデンティティーなどと周りくどく説明したのはそれが理由です。

 

“存在しないもの”が、私の同一性(identity)たり得る。

 

あの時に引っ越していなければ、辛い思いをすることはなかったのに。
本当のクラスメイト達と同じ時間を過ごして、思い出をつくって、私の人生はもっと幸せなものになっていた筈なのに。
そうはならなかった。周りは気づかない。私がどうしてこんなにも他人を信用できないのか。なぜ些細なことを怖がるのか。誰にもわからない。相談しようにも、どこから話せばいいのか、わからない。
この感覚が正常か、異常か、わからない。

 

実際、当時のクラスメイトとの思い出は極端に少なく、あちらは私のことなど覚えていないでしょう。
彼らにとって、私は存在しないものです。
あるであろうものが、あったであろうものに変質し、また、あってほしかったものに変質していく。どんなに形が変わっても、、個人の心に残留し続ける。

 

どんなに手繰りよせようと手元にそれはないのに、これがなくては今の私という個人は存在しないのです。
それが、対象aというものです。

 

以前とは全く違う環境で、現在の友人たちと知り合いましたが、縁とは不思議なもので数人で集まる機会があると、自分はここで生まれて、今日まで過ごしてきたのではないかと錯覚することがあります。

あるいはそう願うくらい。

 

いつまで今の友人と同じ時間を過ごせるか分かりません。皆が忙しくなり、集まらなくなれば、はかなくもその友情は潰えるかもしれない。それならそれで構わないと思っています。

ただ私はここに来れてよかった。

 

 

 

 

 

理想の私は幻想かもしれない。
それは求めても求めきれない“存在しない”アイデンティティーである可能性がある。
「今の私」は、ただ今を生きるしかない。生きていれば、いい人に出会える。

 

 

 

 

 

 

 

 

なにもしていないのに疲れるあの現象

 

 

今回は少し長めの記事になります。


やらなければいけないことを後回しにしてしまったり、つい寝逃げしてしまう……。
日常生活の中でこういった経験はないでしょうか。

 

そんな自分をだらしないと思っている、または直そうと努めているのに、いざ問題に直面すると後回しにしてしまう。そして、後回しにした負債がどんどん積みあがっていき、気づけば大変なことになっている。

 

なぜ、こんなことになってしまうのでしょう。このような状況下にある人の頭の中ではなにが起こっているのでしょうか。


怠惰? 面倒くさがりや?


果たして本当にそれだけなのでしょうか。

 

今回はそういった人の頭の中を自分なりに考えてみます。

 

 

まずこの問題を取り上げるにあたって重要なのはフロイトの「自我」という概念です。
自我とは、簡単にいえば心の統御システムです。

 

次に、「エス」と「超自我」の二つ。


エスとは願望や欲望のことで、快楽を得たいという原始的な欲求です。
お腹すいた、だからご飯が食べたい。眠たい、だから布団に入って眠りたい。

 

しかし、エスのおよそ対極に超自我という存在があります。
人に迷惑をかけてはいけない。今は勉強をしなくてはいけない。
理性や理想は、超自我からの無意識的な指令です。

 

これらをまとめ上げ調整し、最終的な決断を下すのが「自我」といえます。

 

しかし上記のような場合は自我の存在がいつまでも現れず、エス超自我がいつまでも争っている状態になります。
いわゆる「葛藤」という現象は、エス超自我の衝突です。

 

なにもしていないのに疲れるのは葛藤がいつまでも終わらないからです。
原因は「自我の不在」にあります。

 

さらに、自我が不安定だと様々な「自我障害」が発生します。

 

そしてここからが本題ですが、過去に失調型P.D. と診断された男子高校生のケースについて引用させてください。

約24年前の古い事例ですが、「自他境界の曖昧な境界例」について取り上げています(ファイルです)↓

Schizotypal Personality Disorder の高校生に対しておこなった治療者的家庭教師の事例 | 学術機関リポジトリデータベース

 

 

失調型P.D. (スキゾタイパル)は、パーソナリティー障害とついているものの、境界性P.D. と同じく神経症と精神病の間とされている為、「境界例」と呼ばれることもあります。統合失調症の前段階とも言われ、自閉症におけるアスペルガー症候群のような、スペクトラムであるという見方もあります。

 

治療者的家庭教師とは、臨床心理士としてのスキルを用いながら児童の自信や信頼を取り戻していく家庭教師ということで実際の家庭教師とは少し異なるようです。

 

引用したファイルは9ページとやや長めですが、とにかく最初の「事例の概要」だけでも読んでみることをおススメします。

 

環境の大切さ、信頼の重要さがいかに子供の発育において重要かお分かりいただけると思います。「異常者」という外部からのレッテルが、そのまま個人のアイデンティティとなりかねないのです。

 

そしてそこに自我形成に大切な「ロールモデル」の存在がいない為、子供の発達はどんどん遅れるのです。

 

こういった環境下にいる子供の理解で大切な概念は分裂機制、自他境界の脆弱性などです。

 

分裂機制とは、フェアバーンの対象関係論に基づく概念で、境界例研究では非常に重要とされています。


有名なものでメラニー・クラインの「良い乳房・悪い乳房」という言葉にあるように、一人の対象を「良い部分」、「悪い部分」と一面的にしか認識できずどちらも合わさって一人の人間であるという認識が困難であるということです。
他人のことをゼロか、イチかでしか判断できないということですね。

 

自他境界とは、自分と他者は別物であるという意識のことです。詳しくはコチラ↓

www.kokoro-ashiya.com


なぜ、自我障害が起こるのか? については、自我障害を起こした主体の内部と、外部との繋がりが断絶している為であると考えることが出来ます。翻って自我の重要性がお分かりいただけると思います。

 

これは失調型P.D. だけでなく、他のパーソナリティー障害にも同じことが言えないでしょうか。

 

対人関係、および社会生活において信頼というものがどれだけ基礎的なものであり、どれだけ重要なものであるか。また、それなくしてどれだけの苦労をするのか。

パーソナリティー障害の人口比率は、恐らくこれから増加するでしょう。

社会がそのような人を怠惰と見なすのか、またそれはどういった基準で下された判断なのか。本当の病理は、「そこ」にあるのかも知れません。

 


結論。
あの現象は、エス超自我による「葛藤」という現象であり、葛藤を止めるには自我の存在が不可欠。しかし、稀に自我を形成できずに大人になってしまう人がいる。こういう人たちにはロールモデルがなく、また理解者が存在しない。
理想的な解決法は第三者が家庭内に入って仲介役をする。
また、自我障害がある人はロールモデルや適切な指導者を見つけなくてはいけない。

 

 

課題。
ADHDや神経発達症のような人、またはパーソナリティー障害を持つ人は、その特性からして「理解者」を見つけるのが困難である。
また、ロールモデルという概念そのものを理解できない可能性がある。
被差別者における、差別を自覚できない問題である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

理解のある彼くんはどこから来たのか
理解のある彼くんは何者か
理解のある彼くんはどこへ行くのか

by ゴーギャン

 

「商業作品」という共同価値

 

今回は特に取り留めのない雑談になります。


趣味で小説を書いています。
12万文字程度の長編を想定しており、今は6万文字程まで書き終えました。
丁度物語における転換のシーンで未だに考えあぐねております。

ここで晒す予定は今の所ないです。割と痛めのお話なので……。

自分の欲望をいい感じの皮に着せて登場人物の言わせている感じがして、それを心のどこかで他人様に無償で承認してもらおうとしている自分がいて、こりゃダメだなぁと思いました。

というのも割と最近までプロになれたらいいなぁと阿保らしいことを考えていたんです。

人の制作物と自分のを比べてみて、明らかにものが違うのです。

レトリックがどうのとか、世界観がどうのよりも、「他人に開かれた作品か否か」が商業作品においてなにより重要なんです。開かれた、というのは創作物とは常に「作る側」と「見る側」の双方がいてこそ成り立つものです。

たまに自分の為に書かれたアウトサイダー的な作品も存在しますが、ヘンリー・ダーガーのような作家は非常に特殊なケースです。

少なくとも、商業作品とは製作者と消費者の間にある共同価値だと思います。
知的財産という側面もありますし、作品に通底するテーマに救われている消費者もたくさんいるのです。言葉以外に、登場人物の行動に感情が突き動かされる。感動する。
私は、作品そのものはアートと同じく、個人の、ほとんどトラウマの領域にまで作用する、悲しみを追体験できるものでなくてはいけないと思っていました。
カタルシスこそ作品のすべてだと。

しかし、どうも商業作品はそれだけではないようです。

商業作品は、カタルシス以上に、消費者の鏡でなくてはいけない。

消費者の平均的な感性、生い立ち、生育環境、このストレス社会において最も求められる創作の形は、私が求めている作品の形とだいぶ異なっている。
今の消費者は作品の共有にこそ主眼を置いている。

登場人物のトラウマは彼らにとって、象徴ですらない記号。属性。

それらを自分たちの世界とは断絶した彼岸として見て、登場人物を尊厳のある人だと認識していない。どこまでも二次元の住人だという認識。

フィクションだからこそ、人間の生の感情に触れられる。
探偵小説は、そういったある種、悪趣味と捉えられかねないほど執拗な人間の血腥い情念を描いていた。
今はそれほどの感情さえ、どうせ娯楽だからと軽んじられる。

好きと仕事は別物なんだなァ、と改めて思いました。
今のエンタメ市場に求められるものを私は用意できないのだと、力不足を痛感しました。
世知辛いなーと思う反面、今の時期に踏ん切りがついて良かったと思います。

ただ、今書いているものはちゃんと完結させる予定です。
思い入れの強い作品だし、好きを詰め込みまくった話なので……。


そもそも性癖なので。


dTVが四月から歴代コナン映画を配信してくれるので今から楽しみです。
1作目から7作目まで全部好きです。

 

「努力できない」は甘え

私は小さい頃に親の転勤とともに引っ越しを経験してきたせいか、自分の中にリセット願望めいたものがあるような気がしています。人間関係を築いたところで、どうせ意味はないのだと。
人間関係に対する面倒くささは、裏を返せば半ば諦めによるものです。
かつて住んでいた場所で得るはずだった友人との時間は存在しない。
それが悲しい。
その鬱屈は、不登校だった当時、周囲の人に打ち明けられなかった私の本心です。母親は私が不登校である理由を学校でいじめられているからではないかとか、相当悩んでいたようですが当の私の問題は、全て自分の内部で起きていることが全てだったのです。


当時の転校先での私は散々なもので、以前住んでいた街恋しさに学校で泣いてしまったり、そのせいで教師から敬遠されたり扱いの困る子供であったに違いないです。
そこで丁度一年過ごして、また新しい土地へと引っ越しました。


なんやかんやあって今住んでいる土地には愛着がありますし、たまに遊ぶ友人もいい人ばかりです。
たまに仕事の話になり、正社員どころかアルバイトすらまともにやりたがらない私は友人からたびたび諭されています。私の性格は怠惰そのものなので当然ですね。
ですが、私はいまいち勤勉な自分をイメージ出来ません。


経験と理想が釣り合っていない典型的な完璧主義者で、些細な失敗も世界の終わりのように捉えてしまいます。

しかも、突然体調不良になる虚弱体質です。アレキシサイミア傾向というのか、平常時にストレスを自覚できずある時一気に暴発します。

努力する為にと将来のことを聞かれても、具体的な展望も何もありません。ただ書くことで生きていけたらと考える程度です。


そして、最も自覚的なのは今までの私は幻想の世界に生きていたということです。
「努力できない」自分に致命的に足りないのは情熱でも実のところ努力でもない。ラカン的「象徴」です。

前回の記事に通ずることですが、身近なものの中でラカンの「象徴」に近いのは研修アルバイトの隣にいる補佐役の人ではないかとふと思いました。

いつも体感している会計のテンポではないので心なしか気まずく感じますが(私だけかも)、それはアルバイトを店員としてよりもその人の人間性を意識してしまうからではないかと思うのです。

そして、隣にいる補佐の立ち回り(指導)にも人間的な生々しさを感じますが、これを介することで店員らしい対応というのが生み出されるはずです。

上記の例えが分かりづらければ教習所の指導員でも構いません。
教習所では指導員の指導を受けることで、ドライバーはドライバーとしての基本的な振る舞いを叩き込まれますね。

ドライバーとはこういうもの、店員とはこういうもの、
こういった共同意識を持つことによって私達は他者と共同することができるのです。

これは幼児の頃抱いていた幻想を捨て(想像界)、自分の不快を取り除いてくれる母と自分との二者関係の間に、社会規範としての第三者が介入する世界に進出しなければいけない(象徴界)といったラカンの言動とも一致します。


社会不適合者の人がたまに口にする「他人にあるはずのフィルターが自分にはない」というのは、補佐もなしにフルタイムで就労させられるようなものなのではないかと思います。


……それって社会不適合者の責任なの?

 


とはいえ、自分のアイデンティティの上で胡坐をかいて自分の欲求を自分で解消しないのは流石に甘えだと思います。

P.D. を、成長しない言い訳に使わないよう精進したいところです。


病床とは案外、常識という個人の幻想の中にあるのかも知れません。
私が幼い頃の本心を告白する前に、癌により母は亡くなりました。

子供の頃の幻想とはまさに「生きる意味」なのです。
家族との繋がりとはその最たるものだと思っています。
それを安易に壊したくないから、壊れる一因になりかねない悩みを言いたくないのは必定です。
その後に「ちゃんと言っておけばよかった」と後悔するのもまた必定。


自分が見ている「努力しなければいけない現実」というのは、実は自分だけが見ている「幻想」なのではないかと、成人した今にして思う訳で、だからこそ改めて思うのです。

 

努力できないのではなく、そもそも努力する意味が分からないのだ、と。