駅にて待つ。

自己理解の為のブログだよ。素人が何か言ってるだけだよ。

「商業作品」という共同価値

 

今回は特に取り留めのない雑談になります。


趣味で小説を書いています。
12万文字程度の長編を想定しており、今は6万文字程まで書き終えました。
丁度物語における転換のシーンで未だに考えあぐねております。

ここで晒す予定は今の所ないです。割と痛めのお話なので……。

自分の欲望をいい感じの皮に着せて登場人物の言わせている感じがして、それを心のどこかで他人様に無償で承認してもらおうとしている自分がいて、こりゃダメだなぁと思いました。

というのも割と最近までプロになれたらいいなぁと阿保らしいことを考えていたんです。

人の制作物と自分のを比べてみて、明らかにものが違うのです。

レトリックがどうのとか、世界観がどうのよりも、「他人に開かれた作品か否か」が商業作品においてなにより重要なんです。開かれた、というのは創作物とは常に「作る側」と「見る側」の双方がいてこそ成り立つものです。

たまに自分の為に書かれたアウトサイダー的な作品も存在しますが、ヘンリー・ダーガーのような作家は非常に特殊なケースです。

少なくとも、商業作品とは製作者と消費者の間にある共同価値だと思います。
知的財産という側面もありますし、作品に通底するテーマに救われている消費者もたくさんいるのです。言葉以外に、登場人物の行動に感情が突き動かされる。感動する。
私は、作品そのものはアートと同じく、個人の、ほとんどトラウマの領域にまで作用する、悲しみを追体験できるものでなくてはいけないと思っていました。
カタルシスこそ作品のすべてだと。

しかし、どうも商業作品はそれだけではないようです。

商業作品は、カタルシス以上に、消費者の鏡でなくてはいけない。

消費者の平均的な感性、生い立ち、生育環境、このストレス社会において最も求められる創作の形は、私が求めている作品の形とだいぶ異なっている。
今の消費者は作品の共有にこそ主眼を置いている。

登場人物のトラウマは彼らにとって、象徴ですらない記号。属性。

それらを自分たちの世界とは断絶した彼岸として見て、登場人物を尊厳のある人だと認識していない。どこまでも二次元の住人だという認識。

フィクションだからこそ、人間の生の感情に触れられる。
探偵小説は、そういったある種、悪趣味と捉えられかねないほど執拗な人間の血腥い情念を描いていた。
今はそれほどの感情さえ、どうせ娯楽だからと軽んじられる。

好きと仕事は別物なんだなァ、と改めて思いました。
今のエンタメ市場に求められるものを私は用意できないのだと、力不足を痛感しました。
世知辛いなーと思う反面、今の時期に踏ん切りがついて良かったと思います。

ただ、今書いているものはちゃんと完結させる予定です。
思い入れの強い作品だし、好きを詰め込みまくった話なので……。


そもそも性癖なので。


dTVが四月から歴代コナン映画を配信してくれるので今から楽しみです。
1作目から7作目まで全部好きです。