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自己理解の為のブログだよ。素人が何か言ってるだけだよ。

“存在しない”アイデンティティー

 

 

「今の私」は「理想(ほんとう)の私」ではない。
生きていれば誰しもが一度は考えたことのある苦悩。その最たるものこそ、「負のアイデンティティー」です。

 

突然ですが、幼い頃、その時、皆さんはどんな夢を持っていましたか?
仮面ライダー? プリキュア? ヘラクレスオオカブト
素敵な夢ですね。

 

しかし、我々はその夢が永久的に叶わないことを知っている筈です。
サンタなんていないし、夜に現れる鬼も、プリキュアも、現実には存在しないんです。どこか幼心でさえ、それを知っていた人もいるでしょう。

大半の人が、そうかもしれません。

さて、フィクションとは別に、私達は現実について知っていることがあります。

 

私はパパとママの間に生まれた子。両親は私に比類なく愛情を注いでくれる。

私は愛されている。この世界中でどんなに辛いことがあっても、家族がいるから大丈夫。

家族は、私を裏切らない。私も、家族を裏切らない。

 

漠然と信じているこれらの考えは、必ずしも真実ではありません。

 

幼少期の幻想、ラカンのいう「想像界」、自分の心の中にしかないものであるということです。
パーソナリティ障害に悩まされている人が仮に上記のように幻想を何らかの拍子に暴露され、「私は両親から愛されていない」、「裏切られた」、「見捨てられた」と印象に残る体験をしたときに「負のアイデンティティー」もとい、対象aが真に迫った現実として表れてくるのです。

 

事故や、災害などで腕や足をなくした人々に伴う幻肢痛という症状がありますが、まさにそのようにして「私は〇〇ではない」、「私は〇〇になれない」という思考が心身に強いストレスを与える場合があります。


それは現実には“初めから”存在しなかったのに、私の中に残り続け、皮肉なことにその事実は私を私たらしめるのです。

わざわざ負のアイデンティティーなどと周りくどく説明したのはそれが理由です。

 

“存在しないもの”が、私の同一性(identity)たり得る。

 

あの時に引っ越していなければ、辛い思いをすることはなかったのに。
本当のクラスメイト達と同じ時間を過ごして、思い出をつくって、私の人生はもっと幸せなものになっていた筈なのに。
そうはならなかった。周りは気づかない。私がどうしてこんなにも他人を信用できないのか。なぜ些細なことを怖がるのか。誰にもわからない。相談しようにも、どこから話せばいいのか、わからない。
この感覚が正常か、異常か、わからない。

 

実際、当時のクラスメイトとの思い出は極端に少なく、あちらは私のことなど覚えていないでしょう。
彼らにとって、私は存在しないものです。
あるであろうものが、あったであろうものに変質し、また、あってほしかったものに変質していく。どんなに形が変わっても、、個人の心に残留し続ける。

 

どんなに手繰りよせようと手元にそれはないのに、これがなくては今の私という個人は存在しないのです。
それが、対象aというものです。

 

以前とは全く違う環境で、現在の友人たちと知り合いましたが、縁とは不思議なもので数人で集まる機会があると、自分はここで生まれて、今日まで過ごしてきたのではないかと錯覚することがあります。

あるいはそう願うくらい。

 

いつまで今の友人と同じ時間を過ごせるか分かりません。皆が忙しくなり、集まらなくなれば、はかなくもその友情は潰えるかもしれない。それならそれで構わないと思っています。

ただ私はここに来れてよかった。

 

 

 

 

 

理想の私は幻想かもしれない。
それは求めても求めきれない“存在しない”アイデンティティーである可能性がある。
「今の私」は、ただ今を生きるしかない。生きていれば、いい人に出会える。