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自己理解の為のブログだよ。素人が何か言ってるだけだよ。

ラカンの「象徴」

前回は空想について語りました↓

 

phantomtan.hatenablog.com

 

フロイトは「詩人と空想すること(1908)」において幸福な人は決して空想をしないと述べています。空想するのは満たされない人に限る、と。

思うに、性欲や承認欲求といった欲望は先天的に幼児の頃から備わっている訳ではなく、後天的に生まれるのではないでしょうか。
両親から貰えると思っていた無限の愛の代わりに、より即物的な、肉体的な満足を求める。
その為に恋愛や青春というものに対して並々ならぬ幻想を抱いてしまうのではないか(そして、それが現実には存在しないのだと本当は自覚しているのではないか)。

だからこそ、不幸を演じる。その先にある幸福を信じたいから。
我々は信じることと空想することを混同しているのではないか。


これは、あくまでも私自身の見解であり解釈です。
前回同様、こちらでも独自の解釈を拡げておりますのでご了承下さい。


さて、今回はラカンです。


ラカンの理論の中で最も基本的かつ重要な概念として、「三つの界」というものがあります。象徴界想像界現実界の三つから為ります。
これは人の心の在り方を三段階にして表した一つの考え方と言えます。
まずは一つずつ解説していきます。

 

象徴界
私たちが住んでいる秩序的、文化的な世界です。あらゆる現象には名前があり、私達はその名前、言葉を介して他人と情報を共有することが出来ます。社会規範の世界。

 

想像界
現実界よりは前意識的であり、象徴界より判然としないイマージュな世界です。幼児はみな想像界の住人であるとされます。母親と自分を同一のものとして見、その精神的繋がりによって子供は安心感を得ます。

 

現実界
無秩序で混沌とした世界です。
言語化する前の健康的な人間には知覚できない世界ですが、統合失調症の方などは象徴界をはみだし、現実界に片足を突っ込んでいるとされます(あくまでもラカンはそう捉えていたようです)。
いわゆる「トラウマ」と言語化される前のトラウマという概念などは、現実界の片鱗とされているようです。
土台、言葉などでは言い表せない領域なのです。

 


この独自の理論を展開したジャック・ラカンという人はフロイトの弟子にあたります。ですので、ラカンの理論の底流にはフロイトの思想があります。

またラカンは様々な偉人に対して精神分析的に批判しています。
「我思う、故に我あり」といったあのデカルトもその一人です。

彼はデカルトの「行為としての思考」によって人が変わっていく哲学と精神分析で治療を受ける患者(分析主体)を同一視しました。
デカルトの思想は、大いに無意識による影響を受けているとし、それ故にデカルト心身二元論を「大いなる排除」と呼びました。

 

人が思っているよりも無意識が私達に与える影響は大きいです。将来への展望も、好きな人に対する幻想も、大概は「想像界」の代物なのですから。

自分の中の常識が、実は常識なんかではなかった、というのも同じです。

自分と他人との間にある共同価値というのは案外少ないです。
だからこそ貴重ともいうことが出来ます。

文化遺産に手が届く訳はないのに、それと同じくらい希少な存在を求めても、悲しくなったり、苛立たしくなったりするだけなんですね。

それはまさしくラカンが「対象a」と呼んだものなのかもしれません。

 

欲望は、言葉にするまでどんな形になるか分かりません。

どんなにか神聖で美しく見えるものでも、その実態は不気味で不定形なものかもしれないのです。それは貴方の妄想ですと言われて、軽くなるのか、誰とも分かり合えず、途方に暮れるのか……。

 

最低限、生きてさえいればそれでいいのかもしれない。

無理に生きる理由を作らなくていいのかも。

それがなくては生きていけないという、象徴未満の幻想にしがみつくよりは。

 

 

 

以下は参考文献↓

 

工藤顕太「ラカンと哲学者たち」

 

 

 

 

 

 

 

想定していたものと、だいぶズレてグダグダになってしまった。

 

フロイトの「空想」


認知行動療法的には自分の気持ちをカウンセラーや心理士に話すことは神経症や回避性P.D. にとって効果的だと言われています。

まず自分は辛いのだということを自覚する、自分の置かれている環境を辛いという言葉に落とし込むことで不安や恐怖の軽減を図ります。

 

言葉とは、精神分析において大変なものとして扱われます。

 

他人とコミュニケーションする為に言葉は必須ですね。
「こんな言葉で、この悲しみが言い表せるもんか」と殻に閉じこもっているようでは、いつまでも他人と分かり合うことは出来ません。

私も自分を表すための言葉を探す為に本を読んだりネットを彷徨ったり色々してきましたが、結果的に自分が求めているのは言葉ではなく、自分の中にしか存在しない空想なんだということに行き着いてそれっきりでした。


今回は(回避性P.D. の話題から少し逸脱してしまいますが)、フロイト先生の「空想」について語っていこうと思います。


(※著者が素人の為、情報の新旧、真偽につきましては眉間に唾を付けてから閲覧することをおすすめします。特に独自解釈が過ぎる記事になると思われます) 

 

フロイトの著したものの中に「子供が叩かれる――性倒錯の発生の知識への寄与」という小論文があります。
神経症患者における性倒錯の変遷を書いているものなので回避性P.D. とは直接的な関係はありません。そもそもこの論文自体が仮説の範疇であり、現代ではフロイト自身の理論を権威づける為に書かれたものだとしてあまりいい評価はされていません。

 

内容としてはヒステリーや強迫神経症を訴える人々が、幼少時に「子供が叩かれる空想」をしていると告白する。その患者の数は意外なほど多く、そういった空想はエディプスコンプレックスから端を発する性倒錯が表出したものであると主張する理論がつらつらと書かれています。

 

エディプスコンプレックスとは簡単に言うと「(神経症における)罪悪の根源としての近親愛」のことです。

 

エディプスコンプレックスは、子供が親に愛されたいと願う単なる願望として理解されがちですが、本当は「“親に愛されているという幻想”の崩壊」と解釈するべきだと思うのです。幻想を確信と言い換えても構いません。

 

親から満足に愛されていないと知った子供は親を恨みますが、あくまでもそれは無意識での話です。どうにかそれを自覚しないようにします。

 

そして子供はいつしか「アンクル・トムの小屋」などを読み、物語に負けじと空想を発展させていきます。叩かれる、という行為は愛されていることの反証です。
裏切られた事実を無意識に反復しているのか。
また、自分と同じく大人に裏切られた子供に対し、同情しているのか、嘲笑っているのか……性的満足を得ているのか。それは束の間の優越感か。

 

そしてその優越感さえも、子供が親から完全には愛されてはいないという事実の証明なのか。


空想という取り留めのない願望をアカデミックな理論に落とし込むのはさぞ骨が折れたことでしょう。フロイト先生のアプローチがもし精神分析ではなく小説であったなら、また現在の評価とは真逆になっていたかも知れません。


現代日本だと「リョナ」という言葉がありますね。
傷つければ傷つけるほど興奮するというこれまた倒錯的な嗜好です。ほぼグロと同義なので調べる際はご注意下さい。

 


もう少しラフな言い方だと「キュートアグレッション」でしょうか。
今流行りの「ちいかわ」とか、「君がもしお菓子だったなら君を食べちゃいたいです」と好きな子への手紙に書いた芥川龍之介とか。

 

何かと批判の多いフロイト先生ですが、言い換えればそれだけ世間に与えた影響というのが大きいのです。
ただし、こころというその特質上、あくまで個人の精神は神話上でしか語れないのが現状です。精神分析という神話の中でしかトラウマは語れないのです。これはラカンの「現実界」という概念に基づきます。


トラウマが言葉として昇華されるには、空想は不可欠だと思います。
トラウマという混沌とした世界から、空想という世界へ、それから他人と言葉という共同価値を介する象徴の世界へ。

 

人はそうして自分の傷を癒していくといいます。

 

これこそ理想的な行動認知療法の形なんだと思います。

 

次回はこの続きとしてラカン先生の「象徴」について書いていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

敏感なの? 鈍感なの?

前回の回避性パーソナリティー障害について書いた記事では、回避性パーソナリティー障害はHSPとの関連があると書きました。些細なことでも傷ついてしまう性質である、というのは同障害の診断基準でもある為、間違いではないと思います。

しかし、回避性パーソナリティー障害の人は果たして「ただ敏感なだけ」で傷ついているのでしょうか。何故、敏感なのでしょうか?


今回はその辺りを自分語り含め語っていきたいと思います。


私は、自分はずっと健康的な人間だと思って今まで過ごしていました。身体は五体満足あるし、基本的にどこも痛くありません。優良です。
致命的に数学ができないのと、不登校だった以外に大きな病気や骨折も生まれてから一度もしない子供時代でした。

風邪を引けば学校を休めるのでラッキーとすら考えていたくらいです。

だから、傍目に見ればひどく怠惰な人間でしたし、今でもそうです。

 

ある日、年の離れた姉の家に一週間ぐらい泊まることになったのですが、下痢、発熱により三日で自宅に強制送還されることになりました。

また次に泊まりに行けばインフルに掛かり吐きました。

また次に行けば発熱。

姉の家には小さい子もいるのでそれ以降は泊まりに行っていません。

 

また、それからしばらくして車の免許を取りに行きました。社会不適合者なので、親から準中型(2tトラック)免許を勧められ、トラックに乗ることにしました。

胃炎になりました。

人生初の点滴と、病院で吐くという体験をしました(本免は後でちゃんと受かったよ)。


この二つの話で共通しているのはゲロを吐いた、突然体調不良になったという点です。これは、私自身が日頃から不摂生でストレスに耐性がないからで、それ自体は反省すべき点です。
傍目にみて、こんな人間が健全だとは誰も思いません。


「私の考え」と「実際の私」の間には、まぁまぁな距離があるんですね。


こういった人間は「自己認識力の低い人間」というそうです。
人の内面を図るのは得意ですが、自分の能力や今の状態を図りきれずに苦労している人のことです。これは回避性パーソナリティー障害だけの問題ではなく、失感情症や神経発達症の方にも波及する、なかなか深刻な話だったりします。


上記の失感情症ですが、アレキシサイミアともいい回避性パーソナリティー障害と関連があるそうです。

アレキシサイミアの解説は↓

アレキシサイミアと回避を支える理由づけの文脈 | こころの健康クリニック芝大門 (ipt-clinic.com)


敏感だと言われたり、かと思えば鈍感だと言われたり、なにかと大変な回避性パーソナリティー障害ですが、いつか「これが自分だ」と表せるような言葉に出会えるのが今は理想かなと思います。自分を全面的に受け入れてくれる人を探すよりかは、よっぽど建設的だから。

 

一般論や、パーソナリティー障害としての自分は一旦置いておいて、実際の自分はどうなのか。かくあるべき、ではなく、より生きやすい自分を、ネットの世界で模索しています。

 

結論、「回避性パーソナリティー障害は敏感でもあり、鈍感でもある」。

 

 

 

回避性パーソナリティ障害とは

回避性パーソナリティー障害はその特性上、同障害に苦しむ当事者の中でも病態が様々に異なっています。それは回避性だからというより、パーソナリティー障害という形態に含まれる範囲が単に広大であるからでしょう。

回避性だけでなく、自己愛性、境界性の症状も併発している回避性の方もネット上では時々目にします。
回避性という言葉のせいで誤解してしまいますが、彼らは決して人間関係を築きたくない訳ではありません。本当に人間が嫌いで近寄りたくもない、性欲も持っていないならば、その人はもはや回避性パーソナリティー障害ではなく別の障害なのです(→シゾイドパーソナリティー障害)。

本当は親しい間柄になりたいと望んでいながら、対象から嫌われたくなくて回避してしまう、目を逸らしてしまうというのが回避性パーソナリティー障害の主な症状です。

 

回避性パーソナリティー障害について詳しくはこちらのブログをどうぞ↓
https://yumemana.com/labs/avoidant-personality/

 


また、何かと話題のHSPと回避性パーソナリティ障害との関連を指摘する精神科医の方もいます(少し長めの動画になります)↓
https://www.youtube.com/watch?v=WSaNKdsL87s

 


前回の記事に書いたように、引っ越しはとても骨が折れるイベントです。
たまにアクシデントで私のような社会不適合者が生まれます。引っ越しによって、社不が炙り出されたとも言えますが(爆)

 

人間関係のリセット、新しい環境への順応といったことも大事ですが、信頼していた相手から裏切られた気分になり、不信感の中で過ごすことほどのストレスもありません。
ビジネスであれ、家庭内であれ、相応の信頼関係は必須です。

 

幼少の頃から身近な人と信頼を築けなければ、それから先の一生、誰の事も信用できなくなる可能性があります。

 

パーソナリティー障害とは信頼の損失そのものなのかもしれません。

 

私はズブの素人なので、その真意はよく分かりませんが。

 

 

 

 

引っ越しなんかでトラウマになる訳ないだろ

 

……と、思っていた時期が私にもありました。

 

「トラウマ」といわれると、一般的に親からの虐待とかクラスメイトからのいじめなどが真っ先に思い浮かびますよね。

自分の病的な無気力の原因は何かと考えた時、小さい頃の引っ越しぐらいしか思い浮かばなかったので、それってどうなのかなと思っていた節がありました。

小学二年生ぐらいの頃、クラスというか、学年から浮いた子供だったのでいじめを受けたことはあります。しかしそれがトラウマに直結しているかと聞かれたら、どうも確信的に至れないのです。

そうやってうんうん自分のことを考えながら、ネットで似たような人がいないか何度か検索しました。なかなか引っかかりませんでしたが、ある日ヤフー知恵袋にて、腑に落ちることが書いてありましたので共有しておきます。

 

こちらのヤフー知恵袋の質問と回答↓

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12134299412

 

およそ九年前の質問ですが、こちらを発見した際、私はようやく自分の考えていたもやもやが個人の妄想ではないのだと安堵しました。

 

私の「めんどくさい」という感情は、そもそも小学一年生の頃の引っ越しをきっかけに沸き起こったものだと、一旦は考えることにしました。

 

また、認知症患者の方が引っ越しを経験すると認知症の経過が早まるという研究があります。リロケーションダメージというそうです。

https://www.okinawa-nurs.ac.jp/wp-content/uploads/2019/03/07_akahosi_hoka.pdf

 

リロケーションダメージは認知症の方やお年寄りだけでなく、老若男女問わずその弊害が降り掛かる可能性があるものです。

 

また、「場所」というのは個人のアイデンティティに深く根ざすものであるという見方もあります。

https://dialogue-eureka.jp/archive/mysterious-i-in-the-world/vol4-01.html

 

地元愛や、故郷の思い出を綴った歌が世に溢れている理由はその土地を愛しているから、そのトチが恋しいからです。

 

恋しいあまりに、心に傷を負う人間がいるのも仕方ないのかもしれません。

 

この話題の結論としては、引っ越しにおけるトラウマは「存在する」ということです。

 

あ〜埼玉帰りてぇ〜

 

 

 

 

はじめに

 

当ブログは受診歴もないズブの素人が憶測を並べ立てているだけのクソブログです。

このブログを開設しましたのには一応の理由がありまして、私自身が、自分を「回避性パーソナリティ障害」なのではないかと疑い、回顧がてら色々書き殴っていこうという衝動的な動機です。

 

他人様にとってなんの面白みもない自分語りしかしないと思われます。病院で受診された、きちんと行動されている方にとっては酷い傲慢なブログかと思われますので、先にお詫びいたします。

 

私は、幸福とも呼べないが不幸と呼ぶのもおこがましいような気がします。

平均的に言えばクズの部類ですね。性根が。

 

ですので、友人や手近では出来ないような話を中心に取り上げていきたいと思います。

 

よろしくお願いします。